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カラオケソフトのルーツは「MMO」(ミュージック・マイナス・ワン)にあり
1951年に「歌のない歌謡曲」をオンエア。今でも続く長寿番組を手がけた
橋元文朗 氏【元・毎日放送 ラジオ局長】
橋元文朗 氏

「歌のない歌謡曲」は、新日本放送(現・毎日放送)きっての音楽通、森本功さん(故人)の発案で昭和26年にスタートしたラジオ番組です。私も当時、森本さんのアシスタントとして番組制作に携わりました。アンデルセンの童話「絵のない絵本」をもじったタイトルも好評で、ひと頃全国30の民放局で放送されました。歌をロずさむことができる番組の提供という点では。カラオケブームの基礎を作ったのかもしれません。

 番組では1日に4曲、主に邦楽の軽音楽レコードを流し、曲間にアナウンサーの喋りが入るという構成で、週7日、朝の通勤時間に放送していました。当時はテレビもなく、情報がラジオに集中していた時代でしたから、関心も高かった。通勤時間の時計代わりに聴いていた方も多く、放送時間が少しでもずれると「おかげで遅刻した」というクレームがじゃんじゃん入りましてね。あるときこんなことがありました。なぜか「歌の『ある』歌謡曲」が流れているんです。調べてみると、アナウンサーがマイクのスイッチを切り忘れてスタジオで調子よく歌っている。音楽に合わせて歌う欲求は元来人間に備わっているんですね。

 局内で「カラオケ」という言葉が使われ始めたのは、昭和40年頃だったと記憶しています。歌い手が自分の伴奏用に持ち込むテープをそう呼んでいました。名付けたのがバンドか、プロダクションか、放送局の人間か、いずれにしても歌手の伴奏テープを扱う人に違いはないでしょうね。

故・森本功氏
 カラオケといえば、昭和20年代後半にアメリカで売り出されていたLPレコード「MMO」(ミュージック・マイナス・ワン)にルーツがあるでしょう。これはオーケストラ演奏からある一つの楽器パートを抜いたものです。おもに演奏者が練習などに使っていたものですが、歌手のボーカルパートを抜いたものも、もちろんありました。「一流の演奏者があなたのために」なんてコピーがあったように思います。ただ、日本では市販にまで至らなかったから、放送関係者か楽器を使う人しか知らなかったでしょう。ただ、カラオケテープのように細かなアレンジはもちろん施されてはいなかった。カラオケのあのアレンジは、まさに日本人ならではの細やかさを感じる。だからこそ、ここまで多くのファンを獲得できたんだと思いますね。




マイク付き装置、テープ、歌詞カードのカラオケ3点セットを考案
1967年頃、「歌のない歌謡曲」のテープを使ってカラオケセットを考案した
根岸重一 氏【当時・日電工業 社長】
根岸重一 氏

私は、昭和40年代の初期に日電工業という会社を経営し、カーステレオメーカーから組み立ての外注を受けていました。私も歌が好きで、あるとき、8トラックのカーステレオにマイクのミキシング回路を組み込んで歌えるようにできたら面白いのではないかと考えました。工場の技術者に聞いてみると「簡単だ」という。そこで、カーステレオにマイクの入力端子を付けて、ジュークボックスの原型みたいなものを作り上げたんです。

 歌のテープをどうするか? そこで思い浮かんだのが、当時、朝のラジオ放送「歌のない歌謡曲」でした。あのテープが借りられないか…そう思い、たまたま社員の知人が放送局にいるということで、局へ行って尋ねてみると「ああ、カラオケですね」と言って貸してくれたんです。そのとき、歌手が地方に出向いて生バンドなしで歌うときに使うテープが「カラオケ」と呼ばれていることを初めて知りました。借りたテープのなかから私の好きな歌を選んで8トラック用に編集し直し、歌詞も紙に書き写して、手作りの8トラックプレーヤーと一緒に「国際商品」の濱須会長のところへ持ち込んだのです。

 「これはカラオケです」 「え、カンオケみたいだな。そんな名前で売れるわけないだろう」 そんなやりとりがあったことを覚えています。濱須会長はジュークボックスヘの思い入れが深い方でしたから、結局そのセットは8トラックプレーヤーだけが採用となり、「ミニジュークボックス」とか「スパルコボックス」といった名前で世に出ました。

 ハードの開発で大変だったのはコインボックスの製作でした。スロープが付いたコインシューターを付け、タイマーのスイッチを押して100円玉がストンと落ちるようにしたのです。

 ところが、何かの拍子にコインが詰まってしまう。お店から苦情がきて、改良するのに苦労しました。その後もエコー装置を加えたり、テープの早送り機能も付けたりしてハードの改良を行いました。 今考えると、私が考案した機械はハード、ソフト(テープ)、歌詞カードと3要素が揃った立派なカラオケセットでした。でも、当時はまだ店で歌う習慣もなかったのでBGM用として販売されたのも仕方がなかったかもしれません。もう少し状況が変わっていれば「カラオケ」として日の目を見たのではないかと、今思うとちょっぴり残念ですね。




「カラオケ」という名称は使わず、一貫して小型ジュークボックスとして販売
1967年から「国際商品」で小型ジュークボックスの販売展開を行った
濱須光由 氏【現・(株)新エネルギー研究所 代表取締役会長】
濱須光由 氏

昭和30年代の終わり頃、「国際商品」という会社でアイデア商品の販売を手がけていました。ある日、喫茶店にピーナツのテーブルベンダー(卓上販売機)を納めに行ったとき、若者たちがある機械の周りに群がっている光景を目撃しました。ジュークボックスでした。これはビジネスになりそうだと直感しましたが、なんと価格が中古で70万円。乗用車と同じ値段だという。諦めざるを得ませんでした。

 それからしばらくして、8トラックのカセットテープを使った小型ジュークボックスと出合いました。出入り業者の「日電工業」が試作品を持ち込んできたのです。名前を聞くと「カラオケ」だという。放送局で歌の入っていない伴奏をカラオケと呼び、その機械はその録音テープを流してマイクで歌えるようになっているからカラオケだというのです。

 「これだ」と思い、すぐにコインボックスを付けてどんどん製品化するよう指示しました。テーブルベンダーと設置先が共通なので、私には十分な勝算があったのです。 ただ「カラオケ」というネーミングは変更しました。たとえ8トラックを使った小型機でも、高価なジュークボックスのイメージを継承したかったのです。昭和42年に発売した1号機は「ミュージックボックス」。その後の「スパルコボックス」「ナイトジュークボックス」「ミニジュークボックス」など、すべてジュークボックスにあやかった名称にしました。おかげさまで、昭和48年に健康産業に業種転換するまでの6年間、国際商品だけでなく、第一産業、ちくま産業といったグループ会社で約8000台販売しました。一時は生産が追いつかず、他の出入りの工場に手分けして製造を依頼したほどです。

 販売先には、ジュークボックスと同様、機器を店に売るのではなく、設置してコインボックスの売り上げを分担するシステムを進めたこともヒットの要因となりました。

 私自身、歌うことが大好きなので、2号機からはエコーマシンも標準装備させて歌いやすさも考慮しました。しかし、市場ではおおむね市販のミュージックテープを流してジュークボックス的に使われていましたね。素人でも歌いやすいカラオケテープのようなものを用意すれば状況も違ったんでしょうけど。カラオケは日本が生んだ文化といわれるまでに成長しましたが、その普及に当たっては、歌うことを意識したカラオケテープの存在が不可欠だったといえるでしょうね。




30年前、ミニジューク大阪がカラオケの事業展開を始めた頃
1968年から小型ジュークボックスの販売展開を行ったミニジューク大阪の
浜崎守 氏【現・(株)BMBミニジューク 取締役東日本ブロック長】
濱須光由 氏

当社の前身である㈱ミニジューク大阪がカラオケビジネスに参入した当時の様子は、折に触れて創業者だった実父の浜崎巌からよく聞かされたものです。

 昭和43年、父が入院先のベッドでBGMを聴いているときにひらめいたのがミニジユークだったそうです。当時はレコード盤による大型のジュークボックスが全盛でした。しかし、レコードジュークは小さな店には置けません。小型化できればカウンターだけの店にも置いてもらえるかもしれない…。そう考えて、当時流行していた8トラックのカーステレオを応用して小型のジュークボックスの製品化にとりかかったのです。これが1号機「ペティジューク」です。「ペティジューク」には1巻に24曲入ったテープが12本(最初は6本)付いていました。タイマーは100円で30分聴けるようになっており、5枚連続投入が可能でした。しかし、あくまでもレコードジュークの代わりに音楽を聴くもの。この機器を使って歌わせようという意識はなかったので、テープは再生専用の音楽テープでした。そんな機械でもじわじわと需要を伸ばしていったそうです。

 そのうち、この機械にマイクミキシング機能を付ければ面白いんじゃないかと思いたったのです。昭和45年に事業化を決意し、当時の帝国電波(現・クラリオン)さんに製造を依頼し、「歌えるジューク」が誕生したのです。

 これが大変な人気を呼び、全国に広がっていった。真似をする業者も出てきました。でも最初の頃のテープは中身も貧弱で、民謡や軍歌が多かった。酒場に置いても、なぜ人前で金を払って歌を歌わなければならないんだといった雰囲気も強かった。本当の意味で、誰もが好きな歌を歌えるようになったのは昭和50年頃からではないでしょうか。

 私がこの仕事に関わったのは昭和52年ですが、その頃はまだ初期の機械を使っている店がかなり残っていました。そういう店の歌入りテープとカラオケテープを入れ替えていくことから営業を始めたんです。当社は、すでにナイト市場にミニジュークの基盤を持っていたので、入れ替えもスムーズに運びました。

 機械の改良でも苦労しました。スプリングエコーに変えて電子エコーを開発したのは昭和52年。うちが最初でした。足で顧客を開拓し、機械の改良に試行錯誤を重ねた…苦しかったけれど、あの頃は将来の可能性に燃えた楽しい時期でもあったように思います。




日本人は、カラオケ文化を生んだことにもっと誇りをもってもいいですね
1971年に業務用カラオケ1号機を考案、店舗へのレンタル展開を行った
井上大佑 氏【(株)クレセント 創業者、現・(有)イノウエ 代表取締役】
井上大佑 氏

私は、神戸で昭和35年頃からバンドグループを結成し、クラブで演奏活動をしていました。そのかたわら、昭和43年にクレセントの前身である「ミュージッククレセント」を設立し、小型ジュークボックスの販売を始めました。2年後の万博をひかえて大阪は開発ブーム。飲食店がどんどんできていました。しかしBGM用の有線がなかなか入らない。そんな店を対象にレンタルを始めたのです。 一方、弾き語りの仕事はというと、当時、神戸では「歌伴(ウタバン)」といって、お客様の歌の伴奏をするのが主な仕事でした。常連客は持ち歌が決まっているので、その人の歌いやすいように音程、早さ、リズムを合わせてあげる。そのうち温泉などに同行して宴会の出張演奏もやるようになりました。

 昭和46年、お得意さんの出張演奏に応じられず、その人の得意な曲をオープンリールに録音して持たせたんです。これが好評で、ほかからも「オレにも作ってくれ」と頼まれるようになった。こうした伴奏用テープを小型ジュークとドッキングさせて歌えるようにしたらどうか・・・そんな発想から生まれたのがクレセントのカラオケ1号機だったのです。 この装置は、スプリングエコー内蔵の8トラ・ジュークに10巻(40曲)のテープをセットにして、お店では5分間100円で歌ってもらいました。私たちのテープは、よく歌われる曲を歌いやすくアレンジしているのが特徴で、スナックなどにレンタルしたところ、爆発的に受けたんです。作っても作っても間に合わない。2、3ヵ月待ちはざらでした。機械は6、7年の問に6号機まで作りましたが、最後の「101」という機械はカラオケテープの時代が終わるまで多くの人たちに愛されました。機械を売りきりにせず、レンタル方式を採用したことも長続きの要因になったのではと思っています。

 ある外国人記者が「カラオケは日本が生んだ文化であるにも関わらず、日本人ほどその認識がない。辞書に『KARAOKE』の用語が載ったのもアメリカの方が早い」と言っていました。カラオケ産業が日本で成長したのはヒット曲を育むレコード業界と、日々技術革新に努めるカラオケ業界があったからこそ。そして、ひとえに日本人の歌うことを愛し、広めるパワーがあったからだと思います。皆で作り上げた日本のカラオケ文化です。日本人はカラオケ文化を生んだことにもっと誇りをもつべきだと思います。




国民皆唱運動を提唱し、カラオケに情熱をかけた山下年春さんの思い出
1973年に太洋レコード関西を設立しカラオケセットを販売した
新美健治 氏【現・(株)シンミハウジング 代表取締役】
新美健治 氏

太洋レコードは、山下年春さん(故人)が九州を拠点にさまざまな事業を展開していた会社です。山下さんは、戦前から小倉などで映画館を経営し、映画の合間に楽団の演奏や芝居の興業をしたり、楽器店なども経営していました。戦後の暗い時期に「歌を歌ってみんなで元気になろう」と「国民皆唱運動」を提唱したり、物のない時期に、東京のレコード会社に原盤の材料を送るなど、音楽の世界とも深い関わりをもっていました。

 山下さんは、昭和40年代に新人歌手の発掘を目的に通信教育による歌唱指導を開始しました。そのためのレコーディングシステムとして開発されたのが「ハープ」という機械だったのです。東京の業者に作らせたものを九州に持ち込んだのですが、8トラックの録音・再生デッキにマイクミキシング回路が付き、ソフトとしては太洋レコードのオリジナル伴奏用テープ、録音用テープは市販のものを使用しました。

 歌手の卵が使うものなので、練習用のテープも楽団が演奏録音したしっかりしたもので、レパートリーもずいぶんありました。生徒はこうした機器を使って練習し、録音したテープを太洋レコードに送ってくる。これを添削して送り返してやるのです。

 「ハープ」はこのように、当初は通信教育の教材として使われていましたが、これにコインボックスを付けて酒場や喫茶店にレンタル展開をするようになったのです。

 私は、昭和48年から太洋レコード関西として神戸で営業活動を開始しました。当初、カラオケビジネスに注目し、山下さんに機械を送ってほしいと頼んだところ、「太洋レコードの関西支店としてやったらどうか」と「桜華ミニ」という機械を送ってくれたのです。そのときの恩義は今も忘れません。これにコインボックスを付け、太洋レコードのカラオケテープ「太洋パック」をセットして神戸の繁華街へ持って行って売り込んだのです。 太洋レコードはレコード会社とのパイプが太かったので、多くの管理楽曲をカラオケ市場にも使えるように開放してくれた。目立たないけれど業界に果たした功績は大きいですね。

故・山下年春氏
 「楽しく歌う伴奏用太洋パック・テープ」と銘打ったそのテープは同業他社からの注文も多く、その後東京の専門業者に引き継がれ、業務用テープとしてはメジャーとなって広く普及しました。山下さんご自身は商売は上手ではなかったけれど、間違いなく戦後のこの業界の傑物といっていいでしょう。



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